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2015年12月22日

岡崎が誇る古道「道根往還(どうねおうかん)」のご紹介

今回は岡崎市に残る古道「道根往還」(どうねおうかん)についてご紹介します。
(水とみどりの森の駅事業の中で「森の小径(こみち)」として紹介しています。)


道根往還は、現在の東公園入口付近にあった「欠の三本木」の東から、鍛埜町にあった
「鍛冶屋の五本松・馬頭観音」に至るまでの古道です。全長は約10km
高所・尾根(ドウネ)を通る道であったため、こうした名称で呼ばれたものと
考えられています。

鍛冶屋より先は東三河や山間地域に通じるため、歴史的・経済的に重要な道路で、
かなり古くから存在したものと想像されます。鎌倉時代においては足利氏の額田郡支配に、
戦国時代には奥平勢の岡崎攻撃におけるルートとして重要な役割を果たしました。

明治時代までは人馬の道として、主に炭・米・日用品の運搬に盛んに利用され、
一日に100頭程の馬が往来しました。沿道には茶店が二軒あったことが知られています。

明治25年に乙川沿いに県道ができて以後、馬の往来は次第に減りましたが、人の往来は
昭和10年頃まで絶えませんでした。現在でも当時の面影をその道筋でたどることができます。
(新編「岡崎市史」より)

※上記の石の案内板は「東公園」の花菖蒲園沿いの道に設置されています。


※環境保全課が運営している「水とみどりの森の駅事業」のマップ中で紹介
(道根往還の管理はしておりません。)


平成27年12月20日(日)朝8時30分、有志で集った皆さんは
東公園の南駐車場に集合しました。この日は半日の予定で道根往還の
約半分ほどを歩きます。

(右)ガイドは岡崎市立豊富小学校教諭の「竹内謙作」氏です。
長年、道根往還を歩きながら資料を収集したり、補修に携わっておられます。

まだあまり知られていない道根往還の魅力を手作りの資料とともにご紹介いただきます。
以下の情報は実際に歩いた際に撮影した写真と、竹内氏の配布資料から抜粋して
ご紹介させていただきます。


欠の三本木(写真は配布資料から抜粋)

道根往還の起点。4/19~25までの浄専寺(福岡町)の蓮如忌には見世物小屋が建ち、
植木屋や様々な店が出て大変な賑わいでした。道根往還も蓮如さんへ向かう人々が、
鍛埜より東方からも大勢出かけたと言います。そのため、傘松(やすらぎ公園)の辺りにも
屋台や露天商が出たと言います。浄専寺が元能見町へ移っても、蓮如さんには
参詣する人が多かったようです。明治末~昭和初期、岩津の天神さんもかなりの
賑わいであったので、道根往還には多くの人が歩いたと言います。


最初の画像でご紹介した石の案内板は、南駐車場の南側の道路を上がった位置にあります。
ここで、道根往還の歴史背景や全長、見どころスポットなどをチェックします。

千年以上も前から存在しているという古道の歴史を一歩一歩噛みしめながら
ウォーキングスタートです!


小呂池(おろいけ)の辺りまでは舗装されています。しかし、両側の土手は特に整備なども
されておらず、うっそうとした雰囲気が歴史を感じさせてくれます。


茶店跡

道根往還の途中には、明治のはじめ二軒の茶店がありました。
一軒は、やすらぎ公園内にあった「傘松」の東に、もう一軒は、小呂池の南「虎石の大松」
の前にありました。「傘松」の東にあった店は「ウキさの店」といって親しまれていました。
酌婦を2~3人おいて、馬方に酒を飲ませたりご飯を食べさせたりしました。
板田の忠さが「餅はいらんか。食うてごろうじろ。」と大声を張り上げていた、とのことです。


小呂池(おろいけ/通称「岡崎の大正池」)

池の中から枯れた木々が何本も天に向かって突き出し、長野県上高地の「大正池」を想起させる
幻想的な雰囲気が漂っています。梅雨時にはアジサイの花とともに、可憐なスイレンの花や
ハゴロモモの白い花が咲き乱れます。秋は、紅葉に彩られ、天気のよい日には釣り人が
のんびりと糸を垂れています。


(幻想的な光景が広がる小呂池/撮影には朝もやがたつ早朝が絶好とのこと)


小呂池の脇からいよいよ未舗装の道根往還に突入です。激しい雨により
道が削られている所もあり、足をくじかないよう注意しながら歩きます。


車もバイクもなかった時代、多くの人たちが馬を連れながらこの道を歩きました。
幾多の自然災害によっても崩壊することもなく、比較的きれいな状態で現在まで
残っていることが奇跡といえます。


高隆寺根本中堂跡

高隆寺の歴史は古く、創建の由来については定かでありませんが、一説には推古天皇の時、
聖徳太子が寺号を与え、堂宇を建立したと伝えられています。後に、足利尊氏がさらに造営を
して大伽藍となり、遠近の信仰を集めましたが、室町時代末期に兵火に遭い、堂宇の大半を
消失しました。寺の根本中堂跡が今も残っており、その礎石や石段を見ることができます。


切通し(きりどおし)

山や丘などを掘削し、人馬の交通を行えるようにした道のことを「切通し」と言います。
トンネルの掘削技術が発達していなかった明治時代以前には、切り立った地形の難所に
道路を切り開く手段として広く用いられましたようです。人力での作業には相当な労力が
必要であったことが推測され、古道の魅力の一つです。


馬の背道

尾根道の両側が鋭利な刃物で削り取られたかのようで、馬の背のようにやせ細っていることから
馬の背道と呼ばれています。昔は、道根往還沿いの田んぼで仕事をしていると、一日中、
馬の鈴の音が絶えなかったと言います。狭い道中、お互いのすれ違いで困らないように、
馬にはたくさんの鈴が付けられていました。鈴は音色の良いものを遠くからわざわざ
取り寄せたと言います。


南無阿弥陀仏の碑

明治初期に建立されたといわれ、道中の安全を祈願したためとも、旅の途中で不幸にも
病に倒れた人を供養したためとも、追いはぎの難に遭った人を弔い、旅人の無念を想って
村人が刻んだとも言われています。また、この碑の真北に善光寺があるといわれています。

※実際は善光寺の真南は静岡県藤枝市辺りなので、この説は残念ながら誤りのようです。


(石碑の拡大)


石畳

悪天候の時、道がえぐれるのを防ぐために設置され、各所に石畳があったと考えられます。
また、この道を花嫁衣裳に高島田の花嫁が通ったこともあったようです。板田町の明治28年
生まれの古老の話によると「道は草ボコだから、花嫁衣装の裳(も)を尻ばしょいにヒモで
しばって歩いた」と言います。鍛埜のあるお宅では、数代前の奥さんが道根往還を駕籠に乗り
何本かの長持を連ねた花嫁行列で来たと伝えられています。


道根往還はまだこの先も続きますが、今日はここまで!
左の写真の道の向こうは「やすらぎ公園(墓園)」へ向かう道路です。

(右)道路手前に道根往還の案内看板があります。この先、やすらぎ公園内を抜けて
鍛埜(かじの)町まで古道は続きます。この先も「傘松の碑」、「岩戸の三弘法」、
「鍛埜のスミヤ」、「移築された旧岡崎城門」
など、見どころスポットが続くとのこと。

※続きはまたいずれチャレンジです!


ここから中央総合公園の「健康の森」散策コースに入り、絶景スポットの展望の丘
を目指します。距離的にはさほど長くはないですが急な階段が続くため、
冬場にも関わらず相当な汗をかきました。

(右)頂上に到着したらコーヒータイムです。竹内氏の自家製焙煎のモカコーヒーを
飲みながら甘いお菓子で疲れを癒します。香り高いコーヒーでの一服は至福のひと時です☆


これが展望の丘からの絶景です!この日は快晴で、ほぼ360℃の大パノラマに
一同感動です!心地の良い疲れを楽しみに変えて帰路につきます。


ちょうど12時に東公園に戻ってきました。誰一人ケガもなく、参加された皆さんは
疲れながらも満足気な表情で、岡崎市自慢の古道『道根往還』を堪能することができました。


悠久の時を経て今なお私たちに自然の魅力を伝えようとしている古道「道根往還」。
忙しい時代だからこそ、時々は立ち止まり、自然の中に身を置き、自然や歴史と
対話しながら埋もれゆく自然遺産に寄り添ってみてはいかがでしょう!



ご参加いただきました皆様、貴重な資料をご提供いただきました方々、そして丁寧に
ガイドをしてくださいました竹内先生、本当にありがとうございました。


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撮影日  平成27年12月20日(日)
撮影場所 東公園(欠町)~道根往還~中央総合公園
投稿者  環境保全課


ふたば 行こう!水とみどりの森の駅! ふたば
HP:http://www.morinoeki.jp/index.html  


Posted by 岡崎市環境部環境政策課 at 15:28森の小径「道根往還」